2018年 02月 03日
平和公園を歩きながら広島を見つめたときわかること ②橋の上で
Boはこのタイトルを黒澤映画の「羅生門」から名付けたそうです。芥川の小説だと「藪の中」のストーリーです。
原爆ドーム。核爆発の力を耐えることのできた数少ない鉄筋コンクリートの建物の一つである。
むき出しになったねじれた金属の非常階段。それは爆発時の強い熱を示している。
当初の計画では平和公園の北側にかかる相生橋をターゲットとしていた。エノラ・ゲイの乗組員はわずかにターゲットを外した。
この相生橋から、何百も、もしかすると何千人もの人が原爆ドームを撮影する。この風景は広島のもっとも有名な風景の一つになっている。
もしも、この橋の上で向きを変えて他の方向を見たら、視覚的に魅力的ではないものではあるが、はるかに衝撃的なものをしることになるだろう。
それが西にある、本川小学校だ。
本川小学校は再建され、視覚的には爆弾の悲劇を物語ってはいない。しかしながら、この小学校には核による強力で、並ならぬ事実がある。
多くの日は本川小学校には観光客の訪問はない。ここで、1945年8月6日、約400人の児童と10人の教員が即死したにも関わらず。
原爆ドームを見つめることで感じるメッセージ、知る事実を理解するのは難しいが、この小学校から伝わるメッセージよりも簡単なのではないか。
なぜなら、原爆ドーム、かつての産業奨励館は実際この日、何人がそこにいたかがわかっていないのだ。
働いている人はいたのか?商品を見に来ているビジネスマンはいたのか?
おそらく、何人かはいただろうが、この日は何も催されてはいなかったはずだ。
しかし本川小学校から目をそらしてはいけない。ぞっとする事実が隠されている。
本川小学校には400人の児童と10人の教員がいた。そして、生き残った者は誰もいない。
最初、調査員は爆心地からの距離による致死率を調査することに失敗した。
そこで、調査員は致死率を距離で判断するもっとも正確な測定値として、学校の児童数を数えることに着手した。これが正確なデータが場所に関するものだったからである。
調査員は児童の数、教員の数を調査し、それによって分類した。
本川小学校は世界で初めて落とされた原爆の惨状を知るために利用されました。
平日の朝、仕事時間ということもあって、誰が、どこにいたのか、という正確な場所は誰も知ることができません。しかし、学校なら確実です。児童数と教員数さえ数えればそれはほぼ確実な人数把握をすることができます。
そういった理由から学校は利用されました。
しかしながらそんな調査が行われたという事実はほとんど知る人はいません。
それに対し、かつての産業奨励館はあの日、何が起きたのかを物語る強烈なモニュメントとして、生まれ変わって存在している。
多くの訪問者はこの街がどんなふうに再建され、復興したのかを驚いているのをよく耳にする。
しかし一方で、本当に失われたものの多くは隠されている。