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平和公園を歩きながら広島を見つめたときわかること ②橋の上で

読んでくださった方から質問をいただきました。

タイトルの「Hi-Roshimon」の意味について、です。

Boはこのタイトルを黒澤映画の「羅生門」から名付けたそうです。芥川の小説だと「藪の中」のストーリーです。

このタイトルの意味は最後の方で明らかになっていくでしょう。(今回の記事では明らかにはなりません!)

この論文の感想を書くに当たって、あらかじめ許可はいただいていたのですが、今日改めてこのことをお話しして喜んでくださったので安堵しました・・・

ポンコツ翻訳ですからねww
平和公園を歩きながら広島を見つめたときわかること ②橋の上で_c0206311_02345294.jpg

※以下、太字がBoの論文です!
*  *  *

橋の上で

原爆ドーム。核爆発の力を耐えることのできた数少ない鉄筋コンクリートの建物の一つである。
むき出しになったねじれた金属の非常階段。それは爆発時の強い熱を示している。

かつて、原爆ドームは広島県産業奨励館と呼ばれ、県の様々な物産を展示するための施設でした。
ここで第一次世界大戦で中国・青島で俘虜となったドイツ人の菓子職人、カール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを販売したのは有名な逸話でもあります。


原爆ドームを見て、衝撃を覚えるのも無理はないでしょう。金属が歪み、静かにそこにあります。

骨組みとコンクリートの塊からできた、悲劇の”殻”でしかないのです。

かつての産業奨励館として華やかに賑わっていた面影は、今やどこにもありません。




当初の計画では平和公園の北側にかかる相生橋をターゲットとしていた。エノラ・ゲイの乗組員はわずかにターゲットを外した。

この相生橋から、何百も、もしかすると何千人もの人が原爆ドームを撮影する。この風景は広島のもっとも有名な風景の一つになっている。


橋の上で原爆ドームの写真を撮ろうとカメラを構える人々の風景は地元の人に限らず、平和公園に来たことがあれば見た風景だと思います。

ここから写す原爆ドームの姿、不謹慎を承知で言ってしまうと、写真映えするのです。だから皆カメラを構え、広島に来たことをカメラに記録します。

そして、多くの人は記録を残すと、来た道を戻ります。


もしも、この橋の上で向きを変えて他の方向を見たら、視覚的に魅力的ではないものではあるが、はるかに衝撃的なものをしることになるだろう。
それが西にある、本川小学校だ。

この小学校のことは誰も気づきません。というか気づけない。それくらいにひっそりとあります。何も知ることなしに、外観からは何も感じるものはないでしょう。写真を撮っても何もわからないし、原爆ドームのように写真映えしない、ごく普通の小学校です。

私自身も本川小学校へ見学に行くまで、昔から存在していたとは想像もしませんでした。

本川小学校は再建され、視覚的には爆弾の悲劇を物語ってはいない。しかしながら、この小学校には核による強力で、並ならぬ事実がある。


本川小学校も原爆ドームと同じように爆風を耐え、抜け殻ではあるものの形が留まり残った建物の一つであり、現在は平和資料館として使われています。
平和公園を歩きながら広島を見つめたときわかること ②橋の上で_c0206311_00582347.jpg


少し論文から逸れることにはなりますが、この資料館の中にある原爆の爪痕を紹介します。
平和公園を歩きながら広島を見つめたときわかること ②橋の上で_c0206311_01570093.jpg


左側が爆心地に近い方ですが、炸裂して広がっていった熱風よりも、返り風の方が吹く時間が長かったため、右側の方が黒くなっていることがわかります。
平和公園を歩きながら広島を見つめたときわかること ②橋の上で_c0206311_01573169.jpg

多くの日は本川小学校には観光客の訪問はない。ここで、1945年8月6日、約400人の児童と10人の教員が即死したにも関わらず。

原爆ドームを見つめることで感じるメッセージ、知る事実を理解するのは難しいが、この小学校から伝わるメッセージよりも簡単なのではないか。
なぜなら、原爆ドーム、かつての産業奨励館は実際この日、何人がそこにいたかがわかっていないのだ。
働いている人はいたのか?商品を見に来ているビジネスマンはいたのか?
おそらく、何人かはいただろうが、この日は何も催されてはいなかったはずだ。

しかし本川小学校から目をそらしてはいけない。ぞっとする事実が隠されている。
本川小学校には400人の児童と10人の教員がいた。そして、生き残った者は誰もいない。

(注)Boの論文の参考にした文献には”生き残った者はいない”とされているが、実際には2人の生存者がいたことがわかっています。
アメリカの調査内容と本国・日本が聞き取りで行なった調査との「ズレ」が存在します。


上の写真の黒く残る跡は原爆ドームのねじ曲がった金属よりも衝撃は少ないかもしれません。
しかし、実際にここで、強い熱の中で多くの児童と教員の命が奪われたのです。そのことを想像することから逃げてはいけない、と思うのです。

最初、調査員は爆心地からの距離による致死率を調査することに失敗した。
そこで、調査員は致死率を距離で判断するもっとも正確な測定値として、学校の児童数を数えることに着手した。これが正確なデータが場所に関するものだったからである。
調査員は児童の数、教員の数を調査し、それによって分類した。

本川小学校は世界で初めて落とされた原爆の惨状を知るために利用されました。
平日の朝、仕事時間ということもあって、誰が、どこにいたのか、という正確な場所は誰も知ることができません。しかし、学校なら確実です。児童数と教員数さえ数えればそれはほぼ確実な人数把握をすることができます。
そういった理由から学校は利用されました。
しかしながらそんな調査が行われたという事実はほとんど知る人はいません。

それに対し、かつての産業奨励館はあの日、何が起きたのかを物語る強烈なモニュメントとして、生まれ変わって存在している。

多くの訪問者はこの街がどんなふうに再建され、復興したのかを驚いているのをよく耳にする。
しかし一方で、本当に失われたものの多くは隠されている。

知らない事実を知るということは、こんなにも辛い作業なんでしょうか。自分が信じてきたものって、なんだったんでしょうか。そもそも、なにか信じてきたものってあったんだろうかと自問します。

そういうことを考えさせられる事実でした。

そして、また続きます。

今回はこの辺りで!

by sahne-miz | 2018-02-03 02:55 | 考える

広島在住、旅好き人間です。訪問国は70以上。冒険求めて世界中どこまでも。世界の食探検「あかいはりねずみ」オープンしました。


by sahne-miz
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