ロシアで思わぬ巡り合わせで、ベートーベン第九を聴きにいくことになりました。
会場はグリンカ記念合唱ホール。
運河沿いにある建物で、すぐにそれとわかりました。
指揮者は日本人、コーラスもロシアと日本の混合合唱団で、
ソリストはソプラノ・メゾソプラノ(女声)は日本人、テナー、バリトン(男声)はロシア人でした。
そもそも、私がロシアのクラシック音楽に目覚めたきっかけは来日しているロシア人オーケストラ・合唱団による
ボロディン作曲「韃靼人の踊り」を観たことでした。
この作品はソチオリンピックの開会式でも流れていたので、ご存知の方もいらっしゃるのではないかと思います。
ロシア人は方向性が定まると、とてつもない団結力で、巨大な力が働くのか、パワフルな演奏を見せてくれますが
韃靼人の踊りも歌声の音風に圧倒され、ロシアという国、作品に魅せられるようになったのです。
今回の第九も細かいところは抜きにして、巨大な力、それに日本人の持つ力も合わさって感動的なコンサートでした。
他民族と作品を演奏するということは、大きな意味があるように思います。
一つの作品を創りだすために他者を「listen(聴く)」しなければならない。
無視しても、攻撃しても、作品は完成しない。
そして、そこには政治的な意味は全くない、だって、それは音楽だから。
その行為が、何かをもたらせてくれるわけではないのだけれど、
「聴く」ということがすごく大事なことのように、私には思えるのです。
第九にはシラーによる歌詞
Alle Menschen werden Brüder(人々は皆兄弟になる)
という部分があります。
何夢見たようなこと言ってんの。
2000年以上前から対立はおさまらず、幾度となく戦争を繰り返してきたことか。
ちょうどそのとき、アウシュビッツの近くに住んでいたポーランド女性は脱走して来たユダヤ人を命がけで救った話を
思い出しました。
その女性は、戦後、インタビュアーに訊かれました。
どうしてユダヤ人を救ったのかということを。
彼女は第九の詩「人々は皆兄弟になる」を信じて行ったという答えでした。
どんな悲劇のなかでも人間らしさを持ち続け、巨大な悪と戦ったエピソードを思い出したおかげで
ロシア人と日本人の第九を聴いた、今日一日はこの言葉が自分の中にすっと入っていきました。
20余日間、ロシアに滞在し、多くのロシア人と話し、ウクライナの話もしたけれど
ロシア人は愛と希望で溢れているように感じています。
なんだかそういうことも思い出したりして、もっと人間らしさについて突き詰めて考えたいと思ったのでした。
んーーなんか表現するのって難しいな。
おわり!